さばかりの事

メンタル弱めな喪女大生の記録

私にとっては普通だから

私は普通に振り回される

 

友人曰く、私がペラペラと話し出すことは普通ではないらしい。私の中では知っていて当たり前のことだ。逆に私は非常識な人間なのではないかと最近は思えるようになってきてしまった。

私は人が怖い。

何を考えていて、何がその人の中の常識で、その個人の常識に私が当てはまる範疇なのかいつも怯えて暮らしている。就職活動をしていると最近では強くそう思う。

強気で生きてきた過去の私は沢山の人を傷つけてきて最低な人間だったから。

 

私は院には進まない。勉強は好きだけど、それが人よりもふんわりしたもので、興味の範囲もぐらぐらしている。単純にいえば、極められていないということだ。そら21年間の人生で極められる物事の方が少ない。それだからこそ、鋭利な何かを持っている人を見ると同じ時を生きているのに、と思ってしまう。人間なんてそんなものと思ってしまえばそこまでなのだが。ゼミの人に院に進みたくても経済的な理由でためらわれているという人がいる。その人はよほど私よりもはっきりした人で人生生きやすそうに感じてしまう。そんなの皆誰だってそうだろう。その人は積極的に教員に話しかけに行く。私にはそれが出来ない。何故か知らないけれど私の難しい性格で、一対一でないと何事も人間関係がうまくいきそうにないのだ。三人グループになると私は気配を消す。それかめちゃくちゃに一人を壊して二人にしてしまうのだ。過去の自分がそれだった。入学した当初は先生の一番になろうとしたのにいつの間にか最下位になってしまった。人を前にすると言葉が出てこなくなる。それか口から出まかせを吐いているような、上機嫌でお話ししてしまう。それも化けの皮が剥がれるまでの間。だから、私は一日で人と仲良くなっては冷めていってしまう。ものすごく会話が盛り上がったとしても次の日にはその人の顔も名前も思い出せない。だから、無視されたと思われるのかもしれないが私にはそんな気がしていない、昨日話したその人だと確信が持てないからだ。

人と話すことが苦手なのと逆に最近、自分が文章を打ったり書いたりするときは異様に筆が早いということに気が付いた。この前の時にそのゼミの活発な人と同じ時間でものを書いたら私は早かった。前のあの人にも言われたことから思うに、私はモノを作ることにためらいが無いらしい。文章や絵、立体物はずっとその場に残る。話すことは一瞬一瞬の出来事だ。瞬時に消え去ってしまう。まるで人と会うときみたいだ。人の記憶を作ることは大変な作業だ。その分、その場にずっと残るモノはいい。忘れたってまた見ればいいだけなんだから。

じゃあ、生きる。ということはどっちに当てはまるのだろう。

人は死ねば何も残らない。肉は死んだ瞬間から腐っていく。冷蔵庫に入ってる食品の様に。髪の毛はいい。死んだってずっと燃えない限り残る。諸行無常とは言いますが、実際死んだところで永遠は無いかもしれない。それでも、作ったものは少しずつ劣化してゆく。それが遅いか早いかだけで、声の様にもう聴けることはないということはない。全てを無くす炎という形に残らないものはだからこそ神様と等しいのかもしれない。

形に遺らないものといえば、私は感情の表現も苦手だ。

どう表現すればいいのか分からない。嬉しいのか悲しいのか怒っているのか。確かなものは、頬をつたう涙だけだ。笑顔なんていくらでも殺すことはできる。だけど、涙は排泄物だから蒸発しない限りは消えない。

どちらにせよ、その理論上から言えば私の作り上げたものは排泄物に過ぎない。消費されたものの残り滓だ。この文章も排泄物と何ら変わらない。ただ違うのは、この文章が何の役にも立たないということだ。昔、下水処理場の見学に行ったことがある。そこでは下水に混じったゴミは集められ燃やされ発電に役立てられる。それに加え、この文章は何たる無駄か。しかし、究極のエコは息をしないこと、消費をしないことだ。

一度燃やされてしまえばもう二酸化炭素だって吐かない。酸素も使わない。土になるだけ。人生は無駄な連続だ。有効なことなんてあるものか。

だから、生きることは無駄だ。いつか死んでしまうのだもの。

なら、今死ねと思うのは、子供なんぞ作らずに人間死滅してしまえと思うのは。

おかしいことか。

 

そうだった。私は人から見れば非常識な人間だった。

ならば、どうしたものだろうか。なぁ。