死にたくない
クソ頭痛い。
気圧で死にそうなくらい頭痛い。
眠れない。
ここで死んでしまうのはあまりにも悔しい。
明日、東京にミサイルが落とされるかもしれない。戦時中は人間としておかしい。。だが、それが人間なのかもしれない。
それでも、空襲警報に慣れた彼らの耳は、津波警報に慣れた今亡き耳は、
地震に慣れた彼等の身体は、
ミサイルのニュースに慣れた我々の体は、明日どうなってしまうのだろうか。
明日、この街が火の海になり死の灰が降るという可能性があるという事態。
父の、お前が生きてる間に地獄絵図を見るという言葉。死にたくねぇ。
タナトを患った私には恐怖でしかないのだ。そこまで私は強くない。
助かったとしても一生引きずって
そんな強くない。
メンヘラ女のリストカットに、
構ってちゃんへの対応に、
ブチ切れた人間の
さっき、テープで半殺しにした小さなゴキブリに、可能性に。
全ての可能性が怖くて。
何かもうしんどい。
身動きできない。
死ぬまで戦う。死ななければ、
いや、勝ち負けなんかありゃしない
勝てるわけがない
だが、闘わなければ
死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。
これは、坂口安吾の『不良少年とキリスト』だ。元々、太宰治の自殺について書かれたのだが、後半はこんな感じだ。
だから、私は生きなければならない。
頭が痛い。
明日生きていたら、まともな思考になれたら詳しく書こうと思う。
生きなければならない。ただ、これだけ。
誰かのせいで死ぬ。
意味わからねぇ許せねぇ…頭いてぇ
とりあえずもう今夜は眠らねばいけない
朝がくる。
嫌だ、死にたくない。
死にたくないよ